■看板奮闘記
<−あなたは 人目の訪問者です−>
有限会社ネオ・サイン 取締役社長 藤澤 繁美
〒571-0048 大阪府門真市新橋町29-13
Tel:06-6900-8139 Fax:06-6900-8140

■執筆者コメント: この業界で31年やってきました。ただ年数を積み重ねただけかもしれませんが、 この経験に、やる気をプラスしてやれることは何でもやります。 皆様これからよろしくお願いします。
第1回 看板屋になるぞ!

当時、工場で文字イラストを描いて、大阪市内の現場でタッチアップ(補修)しているところです。全て私1人で描きました。

高校を出て、舞台美術と照明の仕事を5年程やり、結婚を期に、突然「看板屋」になるぞ !!と決めました。
まず、文字書きの先生のところへ いざ入門 !
そこでは筆洗い、お遣い(お酒・たばこを買いにゆく)が主な仕事。
「この道は10年かかるぞ」 (ウーン・・それでは一人前になるころは30歳半ばか・・・)

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『よし!』 独学でモノにしてやろうと思い立ち、昼は「看板屋」さんへ勤め、木枠トタン看板の製作やハケでペンキの下塗り・上塗り、現場での取付の手伝いに明け暮れる毎日E・。
幸いにも、ハシゴや脚立には乗り慣れていたし、カナヅチやノコも日常使ってたので、舞台仕事が随分役立ちました。
後年、「電気工事士」の免許取得や「ネオン工事士」の資格を取る時も「照明」の仕事をしていたのがそのまま生きてきました。( 何でも経験しとくものですねぇ。何が役に立つかわからない・・・。 )
看板屋さんから帰宅して、夜は新聞紙を束ねてマス目をひき、ひたすらゴシック体や明朝体を毎日々々書いてました。

そんな日々を過ごすうちに腕にも少々自信がついてきました。
ある時「文字書き」募集の広告に目がとまり、転職しました。
転職して初めての書き仕事では、文字通り "おっかなびっくり" で、1文字仕上げるまで、書いては消し〜を繰り返し30分もかかっていました。(笑)
またまた夜は自宅で猛勉強です。その甲斐あって2年くらいで「文字書き」として独立することができました。
大阪府枚方市で小さな店舗付き住宅の貸家を借り、自分で作って書いた「看板」を掲げました。
昭和51年11月。 念願かなって、いよいよ自らが「看板屋」さんとしてのスタートです。
第2回 貧しくも良い時代

昭和51年の秋、大阪府枚方市で「看板屋」をスタート!!最初はハシゴ(スライダー)も脚立すらも無く、必要時に近所まで借りに行くという、とてもノンビリしたスタイル。昔はこういう看板屋でも結構商売になったのです。

唯一の財産である軽トラックに筆とペンキを積んで、現場へ文字書きに行っていました。
筆も独立時にまとめ買いして、5万円の大金が消えてしまいましたが、その当時、筆は大変高価でしたので、そんなに多く買えませんでした。
そのうち電気ドリルを「中古」で買いまして、針は1本ずつ買い、折れたら買い足すといった、実に貧しい道具でやりくりしてました。
特に「ここ」といった得意先もなく、知り合いの紹介の紹介で、親子4人、結構食べることはできました。
貧しくも、良い時代だったのかもしれません。

看板の価格も、その当時、自分の日当が基本料金で、3日かかるなら「日当×3日で、いくらいくらです」といった、極めてドンブリ勘定。もちろん消費税もない時代です。
儲けてやろうとか、お金持ちに成りたいとかはなく、「明日食べられて月末の支払いが出来れば良し」といった、今考えると何と悠長で呑気な日々を過ごしていたことか。(この頃から、いい意味の欲を出してやっていれば、今頃少しはラクができたのでは・・・と今更ながら後悔)

そんなある時のことです。「目標13XX店 XX薬局」の熊本支店まで看板取付に行く事になり、レンタカーに看板を積んで夜のフェリーで大阪港を発ち、早朝小倉に到着。
一路熊本までトラックを飛ばして、昼過ぎには取付を完了し、久留米まで帰ってきたところでレンタカーのエンジンが止まってしまったのです。
夕方のフェリーで大阪へ帰ることができなくなり、九州での宿泊を余儀なくされ途方に暮れてしまいました・・・・・
予定ではその翌日に、甲子園球場の外野フェンスの広告看板「XX牛乳」の仕事が控えていましたが、段取りの二日間を短縮して、一日で仕上げる約束をしOKをもらうことができました。
ペンキもなるべく早く乾くものを選んで、いざ甲子園球場に乗り込みました。
ちょうど箕島高校の練習日で、夏の日射しをいっぱいに受け、球児が走り回っているのを横目で見ながら、セッセと作業を開始。好天の下ペンキもよく乾き、なんとか約束の時間までに仕上げることができました。

「開会式」が作業直後に迫っていた正しく「待ったなし!!」の仕事で、暑い汗と冷や汗を同時にたっぷりかかせて貰いました。
その夏の大会中は、テレビにかじりつき、白球の行方と、我が書き上げた看板を目で追い続けた「甲子園」でした。

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